FC2ブログ
花盛り朗読


台本を持ってステージに出る朗読・前編

Posted by 小林大輔 on 17.2019 日記 0 コメントを投稿
私を含めて、気持ちよく朗読をやっている人や、朗読好きの方にお送りする「朗読べからず集」10項目は、いささかショッキングなお話をいたしましょう。
長い話になりますので、ブログを前編・後編の2回に分けて書かせていただきます。

まず、あなたに伺います。
朗読は、どういうスタイルに到達すれば、ほぼ完成した形になったと言えるんでしょうか?

その答えは、やや抽象的な表現になって恐縮ですが、朗読と言う一つの芸が素人芸から脱した時こそ、朗読がひとまず完成したと言えると、私は思います。
残念ですが、朗読がどんなに上達しても、現在のままでは、所詮素人芸にしか過ぎません。私はそう思っています。

そう申し上げる理由はこうです。
朗読は朗読と言う言葉に甘えて、当然の事のように台本を持参してステージに上がるでしょう。
朗読なんだから、文章を読むのは当たり前と、朗読者は誰でも台本を読むでしょう。

朗読を芸とするなら、台本持参でステージに上がる。そしていつも台本を読んでいる。
この安直なスタイルこそが、朗読する人にある錯覚を生んでいると思いませんか?

では、あなたに伺います。
本番のステージで台本を持って上がる芸が、プロの芸で、他にあるでしょうか?
本番の舞台で、お客様を前にして、目の前に置いた文章を読んでいるプロの話芸が、他にあるでしょうか?
そんな芸がもしあるなら、それはプロではありません。
朗読はいかに素人芸であるかを、自ら物語っている行為だと思いませんか。
これが、朗読と言う芸の特殊性だと思いますか。

どんなに長いセリフを言う必要がある俳優・女優さんでも、セリフは全部覚えています。それが舞台に出る人達の常識です。
手持ちの台本をチラチラ読みながら、セリフを言っている俳優さんなど見たことがありません。
セリフを死に物狂いで覚えた努力の日々が仮にあったとしても、本番では、そんな事はおくびにも出さず、セリフを言うのが、プロの俳優・女優さんです。

先日私は、兼ねてじっこんの落語の真打ち、桂文治師匠とテーブルで隣り合わせの席に着いた事がありました。
私は師匠に聞きました。
「文治師匠、落語はあんな長い話を、よくゼスチャーや表情を作りながら、皆さんから笑いを取れるものですね。途中で言い淀んだり、忘れてしまったりしないものですか?」
と尋ねました。師匠は
「ええ?何をおっしゃるんですか小林さん。そりゃ、私共には当たり前の事ですよ。それが私らの商売ですから・・・」
と事もなげに言いきりました。

こんなケースは落語ばかりではありません。
講談も浪曲も漫才も寄席に出ているプロと言われている人達は、みんな同じなのです。
芸人はアドリブ風に見せながら、みんな段取りに従って、要領よく語っているのです。それが職業(プロ)なら、ネタ本を見ないのは、当たり前の事なのです。

今度は歌手を例に取りましょう。
歌手は、歌詞を3番まで、当然の事として感情込めて歌い切ります。
中には物語り風な、長い歌もあるでしょう。
それでもプロならば、カラオケのテレビ画面や、カンニングペーパーを見ながら自分の歌を歌うと言う人は全くいません。
そんな歌手がいたら、それは「アマチュアのど素人」です。単にカラオケ愛好家に過ぎません。
つまりプロは、完全に自分の言葉となるまで、繰り返し歌って練習し、自分のものとしています。

では、朗読と言う芸だけは、なぜお客様の前でも、台本を読むことが許されるのでしょうか。

その答えは、厳しいですが、真実をはっきり申し上げましょう。
それは他の芸から見ると朗読がまだまだ素人芸としか認識されていないから、許されている事なんです。
朗読が、まだ一人前のプロの芸として、確立・認知されていないから大目に見られているのです。
この後の続きは、次のブログに譲りましょう。

私が嫌いな朗読スタイル

Posted by 小林大輔 on 15.2019 日記 0 コメントを投稿
今日は、私が箇条書きした⑨番目。
「気取った朗読は、説得力を持ちません」この事をお話ししましょう。

私が最も嫌いな朗読スタイルは、ギンギンに気取りまくった朗読スタイルの人です。中には時々、そうした朗読スタイルの人を見かけます。
登場するなり、見るからに気取っている事が、お客様に見える人です。
この人は言うに言われぬ優越感を持っているのでしょうか。

私は、こうした朗読者を見かけると、すぐにこう思います。
「ああ、この朗読者は、たぶんたいした事はないな!」
朗読を聞く前に、その朗読者に見切りをつけます。

そして私の考えは、たいてい当たっています。
この人の朗読を聞くまでもなく、登場するこの人の態度だけで、この人の朗読の力量がほぼ読めるのです。

この人は、朗読という芸を、大変誤解しています。
どう誤解しているか一言で言えば、自分がこの場の主役だと思い込んでいるのです。
私は前に、何度も申し上げましたでしょう。
朗読会での主役とは、ステージに立つあなたではないのです。
ここの所を誤解しないでください。
あくまで主役とは、会場にいらっしゃるお客様なのです。

では、ステージに立つあなたは、何をする役目でしょうか?
あなたは、主役であるお客様に、朗読によって感動や、お楽しみを差し上げるだけの、あくまで脇役、いえ、その他大勢の端役に過ぎないのです。

その様な謙虚な姿勢をもって、朗読者がステージに出ていくならば、朗読はきっと成功するでしょう。あなたが端役の一人に過ぎないのなら出てくるなり、ギンギンに気取ってなんかいられません。

よくお芝居や舞台を見に行って、その登場人物が、自分を捨てて、役柄や、芸に没入しているケースに出会います。
オーバーに言えば、この出演者は、ちょっと狂っているのではないか、少しおかしいんではないか・・・そういう出演者をたまに見かける事がありませんか?テレビドラマでもそうです。
あまりにその役にはまり込んで、あなたは苦笑いしてしまう事がありませんか?
苦笑いだけではすみません。そう思って見ているうちに、いつの間にか、この出演者のペースに乗せられている・・・。
と言う事を経験したことがあるでしょう。

朗読する人にも、それが必要なんです。
むしろ、それが一番欠けているんです。たぶん、ステージの経験が少ないせいでしょう。
ある意味バカになり切って、その役柄に没入する。
ここまで来れば、朗読と言う芸も、やっとお客様をある境地に引っ張って行ける事になります。

しかし朗読では、そんな人をあまり見かけません。
ギンギンに気取って登場する人とは、あくまで自我を押し出す、経験の浅い、自分中心の朗読者なのです。
ステージに立つのに、最も向かない人です。

もう一度申し上げましょう。
主役は、会場にいらっしゃるお客様なんです。
ステージに立っているあなたは、決して主役ではありません。

文中のセリフをどう表現するか?

Posted by 小林大輔 on 10.2019 日記 0 コメントを投稿
さて、朗読の「べからず集」に戻りましょう。
今回は第8回です。
朗読する人には、残念ながら、共通の弱点があります。
それはセリフで表現する部分が、どうも全体にうまくないのです。
私は、そういう印象を持っています。

この原因は、朗読する人がセリフをどう表現したらいいのか十分な経験を積んでいないから起きることだと思います。
その点、少しでも演劇や舞台を経験した事のある俳優や女優さんはセリフをどう作るかに命をかけています。
だからこの人達はセリフを表現するのに慣れておりセリフを言うのがリアルです。

とするとセリフをどう作るか。
この事に朗読する人は、もっと深い考察をしなければなりません。
このセリフを、どんな風に表現すれば良いのか。
そう言った真剣な考察が、朗読者には全体に足りないような気がします。

と申しますのが、文中に出てくるト書き(状況を説明する文章)よりセリフの方が、これを発言した人物の本音をよく物語っているケースがはるかに多いのです。
そこでこのセリフを2つの作品を例に、どの様に表現することが理想なのか、実際の例に即してご説明いたしましょう。

まず、小泉八雲・作「耳なし芳一」の例です。
目の見えない芳一を、ある侍が、案内するために芳一を訪ねるシーンがあります。
侍は「芳一!」と縁側に座っている芳一に呼びかけます。
この時の「芳一!」と呼びかけた侍の言葉が問題です。
この侍の呼びかけた言葉を、侍が芳一に呼びかけただけだと解釈するようでは、あなたは朗読者として、あまりに単純すぎます。

芳一は盲目です。
この朗読を聞くお客様全ての人に、芳一と同じように目が見えない不自由な人と、錯覚させるような呼びかけをしなければなりません。
こう言う意識をあなたはセリフを表現する時に、持っていましたか?

もう一つは芥川龍之介の「地獄変」です。
この文学作品を朗読する人を、私はほとんど見かけません。
しかしこの作品こそ、朗読する人のテクニックが如実に必要とされる作品なのです。
この作品は随所に、朗読者の創意と工夫が要求される、朗読冥利に尽きる作品です。

特に大殿様が、強力の侍たちに声を掛けるシーンがあります。
牛車に「火をかけい」と大殿様は命じます。
この大殿様の声を、どのように表現するかで、この朗読者の力量が概ね推測できます。
この作品を朗読する人が少ないのは、朗読する人に求められるテクニックが、あまりに多岐に渡り、朗読する事をついつい怖がり、敬遠する作品となってしまうのでしょう。
それとも敬遠されるもう一つの理由は、内容があまりにおどろおどろしい理由からでしょうか?

いずれにしても例に上げた2つの作品は、特にセリフを、どう表現するかが大きなポイントになります。
セリフを活きた言葉として表現した人を見て、私は、この朗読者は、かなり練達した朗読者と判断します。
とすると、あなたの師事する朗読の先生が、この作品をどう朗読しているか、全神経を傾けて、先生を観察して下さい。
先生の表現の中に、ヒントはきっとあります。

年末年始のお休み

Posted by 小林大輔 on 07.2019 日記 0 コメントを投稿
明けましておめでとうございます。
朗読についての「べからず集」は、年末年始のお休みとしまして、一項目だけ、近年の我が家の年末年始の過ごし方からご紹介します。
朗読「べからず集」は新年になってから書きましょう。
私は年末の27日から、新年の4日まで完全なお休みに入りました。
お休みと言っても、日頃家族の雑事を処理するのに忙しい家内が、私の朗読の手伝いもしてくれると言う事から、家内を休養させることが主な目的の休みです。
まず27日から2泊は「太平洋の日の出を見に行こう・・・」という私の提案で、二人で千葉県旭市にある、予約しておいたかんぽの宿に、車で向かったのです。
目的通り、この2日は快晴。
太平洋に昇る日の出を拝むことができ、来年1年の健康を祈ったものです。

DSC_0116.jpg 
太平洋に昇るやはり雄大な旭日。荘厳な気持ちになります。

29、30日は家にいて、家に3匹いる猫の世話。
31日から、また車を飛ばして、静岡県御殿場市にある、御殿場高原ホテル「時之栖(ときのすみか)」に来たのです。

休養とはいえ、ここでは元旦に、御殿場高原ホテル恒例の、私出演の朗読会があります。
私は、その前の12月31日大みそかから、ホテル「時之栖」に入りました。
私の到着を待って、わざわざご挨拶に来て下さった当ホテルの庄司会長と、私がお世話になっている秘書の内田美晴さんにご挨拶出来ました。
この御殿場高原ホテルは、富士山を真正面に望める事と並んで、イルミネーションが売り物のホテルです。

このホテルのイルミネーションは年々壮大で、それを見るため若い男女が押し寄せ、特に年末年始はヤングで大賑わいとなります。
また、当ホテルに投宿して、富士山を眺めながら静かに年を越そうと言う年配の方や、ご家族連れの方々には、私共の朗読イベントが好評です。
老若に向けた2種のイベントが、当ホテルの元旦の売り物となっています。

DSC_0137.jpg 
こんな立派なご案内チラシを作ってくれていました。

この朗読イベントは、私がプロデュースして朗読仲間、軽井沢の朗読の先生・上原真奈美さん。
そして名古屋で手堅く朗読を広めている北村嘉孝さんの2人に呼びかけて、私を含めて3人が朗読で出演。
ホテルの朗読イベントとしては、お正月どこにもない充実した出演陣となっています。

そして正月2日には家に立ち寄って、猫たちのためにエサやトイレの世話。
家内がそれらに忙しく立ち働いてる姿を見ては、3匹の猫たちは、家内に離れず、間もなく私共が次のホテルに向かって出発するのを察したのか「ニャー、ニャー」と泣き通しで、家内にまとわり着きます。
猫たちを振り切るように、すぐに埼玉県熊谷市にあるホテル、ヘリテイジに私共は車で向かいます。

このホテル・ヘリテイジの私の楽しみは、温泉と、癒しの森・ビハーラの遊歩道を一人で歩くことです。
翌日の朝食後、家内を部屋に残し、誰もいない山の中の起伏の多い道をクロスカントリーします。

一周約20分のコースです。
宿泊客は、この寒さの中、誰一人来ません。
このホテルの敷地の山の中に、こんな木の根道や、ゴツゴツの岩のコースをよく作ったものです。
ひっそりと静まり返った落葉の道を、私はハアハア息を切らせ、汗をかきながら一心不乱に走り抜けます。
私は人に出くわさないこのコースが好きなんです。

DSC_0127.jpg 
癒しの森・ビハーラの山の中の道

DSC_0129_20190107112711093.jpg 
周辺は埼玉の深い山の中です。このホテルの敷地の広大さに驚きます。

その後、滝の見える混浴の温泉につかっては(混浴と言っても、当然水着は付けています)汗を流し、運動と温泉を楽しんだマイペースのお正月休みでした。

こうして4日から「朗読」ひとすじ。いつもの生活に戻ったのです。

朗読に向く作品、向かない作品

Posted by 小林大輔 on 28.2018 日記 0 コメントを投稿
私は自分の朗読体験から、朗読する時、
こんなことに気を付けたい。こんな事は直ちにやめよう・・・。
自戒したい事柄を、箇条書きにして、約10項目を列挙してみました。
皆さんの反響もかなりあって、自戒したいばかりでなく、朗読者共通の「べからず集」としてかなり自信を深めました。

今日は、そのうちの⑦番目。
朗読はエンタテイメント(娯楽)です。朗読するに向かない作品があります。
年末年始のお休みを利用して、この事を書いてみましょう。

ボランティアに出向いて、奉仕でお聞かせする作品も、あなたが朗読会で発表する作品も、いずれもこれらは聞く人にとっては、お楽しみを目的とした朗読なのです。

文学作品は大別して、かなり高度な作品と、わかり易い事を目指した平易な作品があります。
芥川賞と、直木賞を例に取ってお話しますと、朗読に向くのは直木賞の対象になる文学作品です。
これは比較的娯楽に近いものです。
わかり易く、直接的に感動を呼ぶもの。わかり易さを目指した作品は、直木賞受賞の作品に多く、これらはいずれも朗読に合います。
(ただし、芥川賞の名前の由来にもなっている芥川龍之介の作品だけは、朗読に向く作品があります。これは例外と言えるでしょう。)

文学作品は、自分の書斎で一人静かに鑑賞する純文学作品と、もう一つ、大勢の人に混じって楽しむ、大衆文学に大別できます。
どちらが、より高度な文学とは、私は申しません。
しかし朗読会で朗読して向くのは、明らかに後者です。
あなたは朗読会開催の目的を、はっきり意識して下さい。
朗読会は、文学を勉強する場ではありません。
お客様は単純に感動したいか、アハハ・・・と笑いたいのです。

前者の作品を、朗読会で朗読したとしても、朗読する人間の独りよがりばかりが目立ち、全く雰囲気に合いません。
朗読会の場で、そうした見当違いの文学作品をトウトウと朗読している人を、時々見かけます。
私は目をパチクリさせて、「ああ、この人はあくまで自分が中心の人なんだなぁ。代金を支払って入場したお客様の気持ちなど、少しも分かっていない・・・」と判断します。

朗読会は、朗読する人が主役ではありません。
主役は実はお客様です。
お客様は何を希望して、ここに来ているか、お客様の気持ちを察して作品を選ぶ余裕を、朗読者は持ちたい物です。
 HOME 

小林大輔の朗読CD

★朗読CD第1弾「山月記」と、
第2弾の「恩讐の彼方に」、
第3弾の「雪女」「耳なし芳一」
「高瀬舟」から、
一部をご紹介します。
それぞれのCDの解説は
下記にあるCDタイトルから
ご覧ください。







CD「山月記」解説←クリック
CD「恩讐の彼方に」解説←クリック
CD第3弾解説←クリック