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花盛り朗読




花ざかりの「朗読会」について思うこと・目次

Posted by 小林大輔 on 07.2012 朗読とは 0 コメントを投稿
『花ざかりの「朗読会」について思うこと』は、
以下の項目について書いています。

-目次-

★朗読会を見た結果

★同じ朗読でも、舞台とメディアは全く別物

★舞台(ステージ)でやる朗読に求められるもの

★演出のない朗読のステージ

★お高かったクラシック音楽

★競争の中でサービス精神を鍛えた
ポップスや歌謡曲のステージ

★将来の朗読ステージはこうなる

★北村塾の朗読劇

★朗読のステージに何が求められるのか

★北村和夫さんに教えられたもの

★アナウンサー出身者の朗読の弱点

★朗読がかなりできるようになった人へのアドバイス

◎その読み(語り)は速すぎます。

◎充分な間(ま)を取ろう

◎何を朗読するか、作品の選び方はかなり難しい。

★どのような朗読者をめざすべきか


『花ざかりの「朗読会」について思うこと』を読む←クリック。


花盛りの「朗読会」について想うこと

Posted by 小林大輔 on 07.2012 朗読とは 0 コメントを投稿
★朗読会を見た結果

 今、朗読会がブームと思われるほど各地で開催されています。
 私は他人(ひと)の「朗読会」を人一倍見て歩きます。

 その日特別に仕事が入っていない限り、都心で開催している
朗読会はもちろん、かなり遠方まで足を運びます。

 その結果、正直に申します。
「このイベントが会場を設定して、少額といえども料金を取って、
わざわざ足を運ばせてまで見せるイベントだろうか・・・」と
思ってしまう朗読会がほとんどです。
 
 テレビやラジオの知名度や人気におんぶした、
なんとも甘ったるい朗読。

 司会者か主催者に紹介されて登場した朗読者が、
いきなり中央に立てたスタンド・マイクの前で、手にした
台本を開いて朗読に入る「ヤブから棒」や「愛想なし」の朗読。

 この人は何の訓練をした成果を見せようというのだろう、と
思える、ぜい弱な発声と台本をなぞるだけの技術スカスカの朗読。

 目の前に聴衆がいることを忘れてしまっているかのように、
自分が朗読することだけで精一杯な、余裕のない朗読者。

 あるいは逆に、自分だけ得意気に、自己満足、自己陶酔した
朗読者。

 この人は、この作品をなぜ取り上げたんだろう、と思える
およそ朗読に向かない作品を観客無視で得々とやっている人。

 あるいは原作の意図を少しも推測しようとしない朗読。

 自分に与えられた時間が短いために、原作を無理やり縮めて
つめ込んだ朗読。
 これは原作をズタズタに短縮して、原作者がお墓の中で
怒っている顔が浮かびます。

 この人のもう1つのミスは、朗読のスピードが速すぎるのです。
 聞く人は、各場面をゆったりとイメージすることなどできません。

 それからよくあるケース。
 ラジオ、テレビのメディアで朗読をやって定評を得ているからと、
その余勢をかってステージで朗読をやってみせている
「カン違い組」です。

 この人達の共通のミスは、マイクとミキシングに頼った
なんとも弱々しい、脆弱な声です。
 確かに端正な朗読ですが、ステージで提供する芸としては
全く向きません。
 その事に本人も周辺も気がついていません。

「そのお上手な朗読は、あなたのメディアの中か、
CDで録音して聞かせてください」
 と私は申し上げたいのです。
 そうしたら、私は自宅でくつろいで足を投げだして聞くでしょう。
 わざわざ出向いてナマで聞くまでのことはありません。

 それ以上に朗読会の大きなミスは、このイベントで何を「見せよう」
というのですか。と私はお尋ねしたいのです。

 観客を前にしたステージ上のパフォーマンスを「Show(ショー)」
と言うでしょう。
 これはあくまで「見せるもの」中心のパフォーマンスです。

 現在行われている朗読会は、「聞かせるもの」はあっても、
お客様に「見せるもの」、ステージ上の「動き」というものが
ありません。
 棒立ちで台本に目を伏せた人物を見てくれと言うのですか。

 朗読とは「Reading(リーディング)」と言うぐらいで、
「聞かせること」が中心。
「見物(みもの)」「動き」がないということは、
お客様を前に置いたステージで展開するイベントとしては
決定的な欠陥です。

 朗読会に関わる人達が、この欠点を知った上でそれでもステージで
やろうと言うなら、この欠陥をおぎなうものを、何か工夫して
用意していますか。


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★同じ朗読でも、舞台とメディアは全く別物

 朗読をする人には、2種類の人がいます。
 この事を明確に分類して意識している人は、少ないでしょう。
 それほど朗読の世界は、まだまだ分析すら進んでいなかったのです。

●1つめのグループ。
 舞台や人前で観客を前に置いて朗読、語り芸、読み聞かせをする人。
●2つめのグループ。
 メディア(ラジオ、テレビ、テープ、CD)の中で朗読をする人、
 アナウンサーやナレーターです。
 このケースは、声だけの出演がほとんどです。

 ともに朗読をする人、朗読を仕事としている人ですが、
朗読をやる場面、フィールドが全く異なります。

 観客を目の前にして、もっぱら肉声でやる語り芸は、
メディアの中で朗読をする人より、はるかに永い歴史を持っています。
 実績があります。

 メディア(ラジオ、テレビ、テープ、CD)で朗読をする人は、
後発の人。メディアの発展と共に誕生した新しい仕事と言えるでしょう。

 さて、メディアの朗読が好評を博したから、
舞台で行う朗読も十分受けるはず・・・と、
メディア出身の人が観客を集めてステージ上の
朗読に乗り出すことがあります。

 この「カン違い組」の、何と多いことか・・・。

 メディアでつちかった人気や知名度をとり去って、
純粋にこの人の朗読を評価するならば、
ステージでやる朗読としては、何ともみじめな朗読、
みすぼらしい朗読としか言えません。

 しかし、本人やその周辺は、その事に気づいていないのです。
 大成功だったと思っているから始末が悪いのです。

 また会場にお客様を集めて朗読をやりながら、
実際やっていることは、ステージ中央に立てた
マイクの前で棒立ちのまま、とくにこれといった訓練を
したと思えない声のまま、手にした台本を
ただ読んでいるだけの朗読・・・。

 多少、朗読の心得はあるのかもしれませんが、
このスタイルは、まさにメディアの朗読スタイルに近いもので、
ステージで披露する朗読ではありません。
 ステージの朗読としては、まるで工夫も演出もないもの
と言わざると得ません。

 ただし、メディアの朗読に手慣れていて、
なおかつステージの朗読が成功している人もいます。
 この人は、日頃メディアでやっている朗読から、
ステージ用の朗読にガラリと変えている人です。

 つまり、ステージの朗読とメディアの朗読は、
まったく別物ということを良く知っていて、
やる場所によってその2つを使い分けている数少ない朗読者です。
 ただし、私が見るところ、そんな朗読者は数えるばかり
しかいません。

 もう一度申し上げましょう。

 メディアの中でやる朗読と、観客を前において生でやる朗読とは、
全く種類が異なる、ということ。別物であるということを
はっきり知ってください。

 メディアで好評だから舞台でも朗読がうまい、とは
言えないのです。

 ただし、その反対はあり得ます。
 舞台で生の観客を前に朗読を披露したその人が、
その技量をメディアに持ち込んでもうまい、というのは
充分あり得ます。

 私が朗読のステージを見て歩いて
「ああ、この人の朗読はうまい!」と思える人は、
朗読を舞台からスタートした人か、人前で生でやるステージの
特殊性を熟知して、観客を前にしてやる朗読には何が必要なのかを
良く知った上で朗読をやっている人に限られます。

 もう一度申し上げます。
 メディアと舞台とは、同じ朗読でも全く別物なんです。


★舞台(ステージ)でやる朗読に求められるもの

 皆さん考えてください。
 舞台から、目の前に集まってくださった観客に提供するものが
「朗読」ならば、その朗読にどのような要素があればお客様を
満足させられるのでしょうか。

 そもそも私は、朗読はステージで提供して見せるには、なじまないもの、
いや、なじみにくいものと思っているのです。

 ましてやメディアで好評を得ている朗読を、観客を前にしたステージで
やっても、これは通用しないのです。
 端正すぎて、サッパリしすぎて、アクがなさすぎるのです。

 もっとも、この人のステージがよかったか、そうでなかったか
などは問題ではなく、メディアの人気者が生で見られただけで
ありがたがっている単純なファンなら、そんな事はどうでも良い
でしょう。
 そういう価値観も確かにあります。

 それほどステージとは、ステージ特有のどぎつさ、
アクの強さがどうしても要求されます。
 このアクの強さとは何なのでしょうか。

 その一例を挙げてみましょう。

 これまでステージで展開して定着しているものを想い出してください。

 それは、オペラ。ミュージカル。バレー。歌舞伎、新劇、新派などの
各種演劇。新・旧各国のダンス。
 クラシックやジャズ、軽音楽のオーケストラ演奏や少人数の器楽演奏。
 コーラスやソロの声楽。ポップスや歌謡ショー。
 能、狂言。落語、講談、漫才の笑いを取るか、しんみり人情ものを
語る芸。

 これらは、ほとんど、極限まで人体か芸を鍛え上げた、
ほとばしるような人間のエネルギーの表現なのです。
 スペクタクルで、なおかつ人の情感を刺激する見物(みもの)なのです。
 いずれも溢れるような人間のバイタリティの表現なのです。
活気にあふれた人間賛歌と言っても良いでしょう。
 つまり、見た目を満足させる要素が、必ず全体の50%以上あります。
 舞台に欠かせないアクの強さとは、これに尽きます。

 そこには気取りや遠慮は少しも無く、細部まで見た目の工夫をこらした、
観客の意表を突く、極限までに絞り上げてサービスに徹した、
スタッフと出演者の連携による躍動感の表出なのです。

 つまり、よほど工夫と演出をしないことには、ステージでやる
朗読には、ステージに必須の「見せる」「動く」要素が
致命的に無いのです。


★演出のない朗読のステージ

 舞台には、必ず演出がつきものです。
 良い演出者がつくだけで、この舞台の成功はおおむね
約束されたようなものです。

 ところが、今さかんにやっている「朗読」の舞台は
朗読をやって出演している人も未熟ですが、その舞台の裏に
演出者の配慮を私はほとんど感じたことがありません。

 こう言っては失礼ですが、朗読の舞台には、朗読と舞台の
双方を知り尽くした経験豊富な演出家はいないのでしょう。

 だって考えてみてください。
 朗読者は、朗読に入ると、ほとんど原稿か台本に目を向けて
まず観客に視線を送る、ということがありません。
 観客に積極的に視線を送らない、こんな気弱な風変わりな
舞台って他にありますか。

 朗読者は司会者に紹介されてステージに出て来るなり、
いきなり台本を広げて朗読に入るのです。
 せっかくこの会場まで足を運んで、何がしかの入場料を
支払っているお客様に
「本日はようこそお越しくださいました。ありがとうございます。」
 という謙虚なナマのお礼の言葉すら無いのです。

「今日私は、この作品を、こういう気持ちで選びました。
私のここを聞いてください。」
 という当然の挨拶すら無いのです。

 何も「お客様は神様です!」と観客におもねる必要は少しもありません。
 しかし朗読する人が普通の社会人として当然述べるような挨拶ぐらいは、
本人からきっちりと行なうべきです。
 こうしてまず生の人間を、自然な姿を見せるべきです。

 仮にあなたの家へ人が訪ねてくれたとしましょう。
「あら、よく来て下さったわね。ありがとう・・・。
 暑(寒)かったでしょう。さあ、上がって。」
 ぐらいなことは言うでしょう。
 ましてや、この場合、お金を払ってこの会場まで来て
くれているのですよ。
 それが、お礼の一言もなく朗読に入るなんて、
礼儀知らずも良いところです。

 先ほど、ステージとは、人間のエネルギーの表出だと申し上げました。
 朗読に入ってしまうとほとんどの朗読者が、人間のバイタリティを
表出する機会を失ってしまうほど没人間になってしまっています。
(これは、ひとつにはその人の朗読が未熟なレベルだから、と
私は正直思います。)

 そうであるならば、朗読の前後に、いかに本人がアドリブで語りかけ、
朗読者の素顔を見せるかが、演出の勝負になる、とはお思いになりませんか。

「いや、私は朗読は勉強しましたが、そんなアドリブでお客様の
ごきげんをとり結ぶなんて、やってませんよ。」と、おっしゃるのですか。

 舞台に立つ人なら、その程度の自在で伸びやかなアドリブを駆使して
観客に呼びかける訓練と経験は積んでいてほしいのです。

 演出家は、朗読者に朗読する時間を少し削っても、
その程度の演出は施すべきです。

 ところで、腕のある演出家をお願いしたいのは山々だけれど、
朗読のステージで経験豊富な演出家を雇い入れる予算がない・・・
という場合があるでしょう。

 演劇の世界では、そんな事はよくあることです。
 せっせとチケットを売った乏しい予算の中で、
みんな最高の舞台を作りたいと努力しているのです。
 そんな場合は、どうしますか。

 出演する人が中心になって、裏方をつとめる人も、
受付けのお手伝いをしてくれる人も、全員で当日来て下さる
お客様を満足させるため、懸命の、必死の工夫や知恵を
出し合うでしょう。
 ここが小さな演劇集団の、むしろ民主的で楽しいところです。

 朗読の舞台も同じです。
 なんとかこの朗読の単調さを破るために、何をしなければ
ならないのかを、朗読者たちが考え出すのです。

 そのために、日頃から他の芸能の舞台や、朗読でも他人(ひと)の
ステージを広く見ておく必要があります。
 自分の仲間やグループの、おきまりの朗読会しか見ていないようでは、
そのヒントは決して生まれて来ません。


★お高かったクラシック音楽

 こういった工夫を一番実行して来なかったのがクラシック音楽の
舞台でしょう。
 クラシックほどお高くサービス不在のステージはなかった、と
私は思っています。

 クラシックでは声楽家でも、器楽の演奏者でも、
ヌーっと舞台に出て来て、ニコリともしないで歌(演奏)に入り、
終わってニコリともしないで、またヌーっとソデに入って行く。

 まるで笑顔を作ることが、挨拶をすることがソンとでも言うのか、
プライドが許さないというのか、
血の通った人間とは思えない愛想のなさ、冷たさ・・・。
 これで、やっているあなたも、お客様も音楽が楽しいですか。

 我が国でクラシックの普及がおくれた理由のひとつは、
ここにあったとも言えます。
 朗読の発表会でも、これに似たことを行っていませんか。

 私が朗読会に足を運んで「オヤ、オヤ・・・。」と失望しながら
帰路につくのは、たいていこういう朗読会なのです。

 ところが、そのクラシックでさえ、今や指揮者が、
演奏者、声楽家が、演奏の合い間に自分の言葉で、
自分の想いをとうとうと語る時代ですよ。


★競争の中でサービス精神を鍛えた
ポップスや歌謡曲のステージ

 ましてや、ポップスや歌謡曲のステージは、この出演者がナマの言葉で、
自分の想いを延々と述べることが、もはやステージでの常識、習慣と
なっています。
 これは歌に入ってしまえば、本当の自分の姿の一部しか見せられないという
想いが出演者に分かっているからでしょう。


 この歌と歌の合い間に自分の言葉で自分の想いをアドリブで語るという、
人間的な部分が、結構、観客に本人を理解させ、この人の人間性に共感する
重要な要素になっている事が多いのです。

 観客からすると、歌もさることながら、ステージ上のアーティストや
スターが何をしゃべるかを楽しみにしていたり、ステージと観客席の
言葉によるタイミングのよい交歓が、とくに若い人達のコンサートでは
会場の一体感、臨場感を生み出しているのです。

 ポップスや歌謡曲のスター達が、みんながみんな
おしゃべりが上手だった訳ではありません。
 しかし、ステージでアドリブで語る部分が、
歌を聴かせると同じほど(場合によってはそれ以上に)重要だということに
気がつくと、ニガテだろうが、無口だろうが、
スター達が観客に自分の言葉で語りかけ始めたのです。

 その経験を重ねるうちに、スター達はすっかりおしゃべり上手、
笑わせ上手、乗せ上手になっていったのです。

 今や、ステージの座持ちの良いスターは、ポップスでも歌謡曲でも、
ゴマンといます。
 中には「おしゃべりはもういいから、早く歌に行け・・・。」と
言いたくなるような、おしゃべり過剰な人も確かにいます。
 それはともかく、サービスが進化すると、自然とここまでになって
いくのです。
 朗読のステージが、そんな努力や演出をしていますか。

 だって人間の特性は、言葉でコミュニケーションができる。
 言葉で思いが伝えられる。
 言葉で相手の緊張を解いてあげられる。
 言葉で人を楽しくさせるところにあるのですから。


★将来の朗読ステージはこうなる

 そこで将来の朗読ステージを予測するならば、
次の2つの方向が考えられます。

 1つは、見た目の動きは少ないけれど、従来からステージで
定着していた芸、落語や漫談に近い語りかけを加味したもの。
 つまり、朗読者の自然な話術で楽しさや、観客をくつろがせる
もっとスマートな語りかけがプラスされていること。
 ただし、くれぐれもわざとらしさや、観客にこびる会話は
必要ありません。

 その上でひとたび朗読に入れば、圧倒的な朗読を見せつける
実力を備えていること。
 将来の朗読ステージの予測の1つ目は、これら2つの要素を
備えた朗読ステージです。

 これとは別に、朗読の進化したもう1つの姿が想像できます。
 朗読の将来の姿、その2です。

 それは、朗読がぐっとお芝居に近づいた姿です。今あるもの
では、肉声による「ひとり芝居」に近いものです。

 台本は手に持っていません。
 出演は1人、または少人数。
 演技はおさえて、もっぱら「語り」を重視した静かな「お芝居」。
 会場は、出演者の息づかいがきこえるほどの、さして
大きくない会場。といえるでしょう。

 私が朗読のステージを見て歩いて「この人はうまい!」と思う
朗読者は、たいていこういう人です。
 少人数ですが、もうこれをやっている朗読者がいます。

 司会者に紹介された朗読者が、中央のスタンド・マイクの前で、
いきなり手にした台本を読んでいる朗読では、遠からず飽きられて
しまうでしょう。
 こんなものでは、お客様に足を運ばせてお金を取って、
ステージで公開する必要もないでしょう。
 これは、メディアの朗読なのです。


★北村塾の朗読劇

 私は2012年おしくも故人となられた淡島千景さんを主役に、
脇役を文学座出身か文学座に所属する真摯に新劇を勉強した
芸術家といえる俳優達で固めた実験的な「朗読劇」を
約3年間やりました。

「朗読劇」なるものが、実際の舞台での出し物として
通用するものかどうかを検証しよう、というのが
真の目的でした。

 このもともとの発想は、文学座の北村和夫さんから出たものです。
 我々はこれを「北村塾」と呼んで朗読劇の舞台を勉強したものです。
 80歳をすぎた淡島千景さんほどの大御所が参加して、
まだ演劇を学ぼう・・・新しく注目されている「朗読劇」が、
演技をおさえて朗読(セリフ)だけで、果たして観客に受け入れられる
ものかどうか検証しよう・・・という姿勢を持っていたことに驚きます。

北村塾

 演出担当は、やはり文学座の長老・戌井一郎さん。
 この方も90歳を過ぎて最期までこよなく舞台を愛された方です。
 私の役柄はこの舞台でストーリーを解説する朗読を担当しました。

北村塾チラシ

 こんな我が国最高のスタッフ、キャストを集めた「朗読劇」ですら、
私は「果たして朗読(朗読劇)は舞台で提供して観客になじむ芸なの
だろうか・・・」
 という疑問が最後まで解けなかったのです。

 お芝居とは言いながら、ほとんど演技をしないで
台本を手に持っているのですから、
 何となく舞台稽古の途上の未完成な舞台を、
有料で見ていただいているような、うしろめたさが
つきまとってならなかったのです。

 それが、ほんの少し朗読をかじったからといって、
自己満足のためでしょうか、自己陶酔でしょうか、
人を集めて舞台でやっている、しかもそれが、
ステージの中央に立てたマイクに頼って、
何の訓練もしていない声のまま、棒立ちで
手にした台本を音声にしているだけの未熟な芸を見ると、
「何という怖いもの知らずの素人芸・・・」と唖然とするのです。
「舞台(ステージ)とは何なのかの勉強をもっとしてからでも
舞台に立つのは遅くはないですよ。舞台とは難しいものですよ。」
 と言ってあげたいのです。

 それはともかく、この実験公演の結論としては、
●朗読(劇)に向く、すぐれた作品を厳選し
●発声と声量、セリフまわしなどの訓練が充分に身につき、
なおかつ作品の洞察力のある出演者が

●舞台の演出に精通した演出者のもとに
演じるなら、朗読(劇)も舞台でも確かに通用する
という結論なのです。

 条件がいくつかついていることに、注目してください。
 厳しいようですが、どの条件が欠けても、朗読(劇)は舞台では
通用しないのです。


★朗読のステージに何が求められるのか

 つまり朗読のステージは「舞台で展開してふさわしい芸とは
何なのか。
 舞台では何が観客を満足させるのか。」を演出家がまだまだ
知らないまま演出を引き受けているような気がしてならないのです。

 いや、そんなところまで配慮がいかないレベル。
 ただ朗読者の出演順を決め、「出」と「入り」の交通整理だけに
終始している、演出とも言えない演出にすぎないのです。

 また出演者も「自然な語りかけと圧倒的な朗読力を
身に着けない限り、朗読はステージで見せるイベントとしては、
動きに乏しく、ビジュアル面でステージ向きしないもの」という
意識がなさすぎると思うのです。

 朗読とは、何が出発点となり、どういう人の働きが支えになって
いるのかを、演出家も朗読者も、もっと広く知る必要があります。

 そこで、これはステージで朗読するというには少し様子が
異なるかもしれませんが、こういった運動をしている一群の
皆さんがいることを知って下さい。

 それは、決して華やかな朗読ステージではありません。
 都心のホテルや有名なパーティ会場で、ライトや花で飾った
ステージに着物やドレスを着て、こちらも着飾ったお客様を相手に、
気取った朗読を披露する・・・というものではありません。

 小学校や幼稚園の教室で、先生の許可のもと、ホームルームの
時間や放課後、幼い児童や生徒を自分のまわりに車座に座らせて、
ポツリポツリと素朴な民話や昔話を聞かせたり、紙芝居や絵本を
示しながら物語を語っている、主婦や年配の方達がいます。

 この人たちは、ある時は老人施設や障がい者施設を慰問して、
笑顔を絶やさず朗読を聞かせてあげています。
 地域の施設に親子を招いて読み聞かせの見本を丁寧に示しています。
 良い絵本の紹介もしてくれます。
 また目の不自由な方のために、最新の情報や文学作品をテープや
CDに録音して、ライブラリーに収める運動をしている人もいます。

 私は、同じ朗読でも、この人達の着実な運動を見るにつけ、
本当に頭が下がります。
 何と善意に満ちた貴重な行動だろう・・・と感服します。

 そして、こういう地味で目立たない行動をさりげなく実行している
人達を見ると、私はなにかお力になれないものかと思うのです。

 この方々のボランティア活動に手放しで敬服するだけに、
あえて申し上げるならば、この皆さんの朗読が、もう一段お上手ならば、
皆さんの活動はもっともっと他人(ひと)に感動を呼び、
活動の範囲も広がるものを・・・と惜しむのです。

 私は、自分が主催している朗読教室を、この皆さんに見習って
「社会貢献できるようになるまで、朗読力を高めよう・・・」という
目標を掲げています。

 ひと月に1日で良いから、朗読によるボランティアの日を設けようと
生徒に呼びかけて一緒に励んでいます。

 そこでもし、失礼でなければ、こうした運動を以前からしている方も、
私の朗読教室にいらっしゃいませんか。
 そして、もう一度朗読や読み聞かせを基礎から学びませんか。
 もう一段、あなたの朗読のレベルをアップしませんか。

 私は決して、自分の教室に無理に皆さんを誘導しようとしている
のではありません。
 私自身、この教室はボランティアで運営しています。
 生徒が増えたからといって、私がもうかるわけでも何でもありません。

朗読教室←クリック。

 皆さんの行動が、清らかで社会のすき間を埋める敬服に価する
行動だけに、みなさんの朗読のレベルがもう一段高ければ、もっと
皆さんの行動は注目され、高く評価されると思うのです。

 あなたのグループが、リーダーも、所属する皆さんも「小林さん、
それでは月に一度ここへ来て、私達に朗読を指導して下さい・・・。」
とおっしゃるなら、私は時間がある限りボランティアで
ご指導に出向きます。

 すでに社会的な活動を充分になさっている方々に、僭越ではありますが、
私は、この人達の行動を陰ながら応援したいのです。

 私が、なぜこの項目に直接関係が無いように見えるこの皆さんの
活動を持ち出したのか。
 それは、とかく華やかに見えがちな現代の朗読ブームのもっともっと
以前から、このような地道な努力をコツコツと積み重ねていた人達が
いたことをご紹介したかったということ。
 この方達がやっているように、朗読の原点とは、人の肌のぬくもりと
息づかいを感じさせる温かいコミュニケーションこそがベースに
なっている、ということを今のすべての朗読愛好家に知って
もらいたかったからなのです。

 母親が我が子が寝入るひととき、枕元で静かに語りかけている
肉声による物語り。
 これこそ、朗読(語り芸)の出発点であることを思い出して
ほしいのです。

 あなたがステージに立つような恵まれた朗読者になっても、
朗読は技術やテクニック以前に必要な心構えがある、
と言いたいのです。

 朗読は自分のためにやるものではない。
 聞き手を思いやる優しい心が、朗読者には必要だ、と私が言う
意味がおわかりいただけますか。

 では、根底にその心構えが根づいたとして、次に圧倒的な朗読力とは
 何なのか述べましょう。


★北村和夫さんに教えられたもの

 「北村塾」を主催していた北村和夫さんは
常に舞台は人間の生命力のほとばしりだ。
 と言っていました。

 つまり舞台に立つ人は、いつも溢れるようなエネルギーや
バイタリティを観客に惜しみなく見せつける。
 これが観客を惹きつける原動力だ、というのです。
 これこそがプロの業だ、というのです。

 朗読は舞台で見せる芸としては動きが乏しいという弱点を
宿命的に持っています。

 それでも朗読で人間のエネルギーを表現しようとすると
基本になるのは、それは朗読者の溢れんばかりの声量、
鍛え抜かれた声
だといいます。

 まず基本的に声にボリュームと迫力が無いと、プロの朗読者とは
言えない
と教えられました。

 確かに北村和夫さん自身、渋い、ハリのある大きな声。
 体一杯に共鳴した響きの良い、惚れ惚れするほどの声を持って
いらっしゃいました。

 北村さんは300名ほどの客席のある劇場なら、
マイクはなくても隅々まで届くように声を鍛錬しろ、
と要求しました。

 リハーサル時、私が舞台で解説するのを北村さんは客席の最後列に
座って聞いていて
「小林君、それじゃ声が小さい!」
 と何度そこから大きなよく響く声で怒鳴られたかわかりません。

  私はかなりなボリュームで語ったはずですが、このありさまです。
 確かに日本の語り芸の原点は、肉声です。マイクなど使いません。
 その肉声の迫力が人を惹きつけ観客をひっぱって行くのです。

 古来から、街中でこぶしをふり上げて、自分の主義主張をとうとうと
述べている政治をめざす人間も、宗教家も。
 戸板の上に品物を並べて面白おかしく商品を売っている
トラさんのような商人も、ガマの油売りも、かわら版売りも、
みんな元気一杯で大きな声で呼びかけています。

 つまり、人に影響を与えようとする人、
人に何かのアクションを起こさせよう(感動をさせよう、
というのもその1つです)という人の声は、
おしなべて大きくて迫力があります。


 金魚売りや風鈴売りはよく通る特有の調子を持っています。
 これもマイクなんか使いません。
 舞台俳優はもちろん、高座に上る噺家、講談師も、もともとは
自分の声が命。みんな肉声なのです。

 朗読を見て歩いて、私がほとんど不満に思って会場を後に
するのは、あまりに弱々しい、マイクに依存した小さな声。
 その上この人の人間性をかくした気弱な、または気取った
朗読が多すぎるからなのです。

 朗読会で、観客を圧倒するような骨太な肉声。
 朗読者の人間性をさらけ出すような開けっぴろげな朗読に、
私はほとんど出会ったことがありません。

 では、どの程度の声が必要なのでしょうか。
 それについては、私の日記「朗読のプロとは?」に詳しく
書いていますので、読んでみて下さい。

朗読のプロとは?←クリック。


★アナウンサー出身者の朗読の弱点

 朗読はアナウンサー出身の人より、俳優さんの朗読の方が
味があるとよく言われます。

 確かにそうです。
 アナウンサーはジャーナリストです。
 対象物を客観的に見る習慣がついています。
 良いアナウンサーほどそうです。

 ニュースを読んでいるアナウンサーがその内容を自分の
こととしてのめり込んで読んでいる例はありませんね。
 あくまで客観的な事象として、外からこの出来事をとらえ、
報告しています。

 この客観性が、文学作品を朗読する時の命とりとなるのです。
 アナウンサーの朗読はどこか他人事(ひとごと)として
よそよそしく感じられる、と人が言うのはこのためです。

 私もアナウンサー出身です。

 私は現役時代から、将来朗読をやるからには、
この弱点を克服しなければ私の朗読は完成しない、と早くから
ターゲットを絞り、決意を固めていました。
 ですから今小林大輔はアナウンサーだったから朗読がうまい
と言われるのは心外です。

 私はかなり長い期間、アナウンサーのアナウンスを捨てて、
人間味のある朗読に専念する勉強の期間を秘かに持ったものです。

 アナウンサーの仕事と朗読、特にステージで演じる朗読とは、
全く別物と割り切って、新たな勉強に取り組んだのです。
これがなかったら、小林の今の朗読はあり得ません。

 もうひとつアナウンサーの欠点を挙げましょう。

 アナウンサーの仕事は、マイクとミキシングに依存した声で
すむという点です。

 アナウンサーは正確で端正であれば大きな声はさして
必要としません。
 実は、これも舞台では致命傷となるのです。

先生06
↑左から根上淳さん、1人おいて女性は和泉雅子さん。そして私。
インターホンを耳につけている2人の男性はフロアディレクター。


 さて、こうした矢先、文学座の俳優だった北村和夫さんに
出会ったのです。

 北村和夫さんは、私の大学の学部、学科の先輩でもあります。
 北村さんに師事し、薫陶を得たおかげで私の朗読は自信を持って
人前で披露できるレベルに仕上がっていったと思っています。

 それまでは自分でも未完成で、正確に端正に上品には読めるけれど
どこか人をひきつける感情がこもらない・・・
人間の暖かさに欠けている・・・
という意識が自分でもぬぐえませんでした。

 アナウンサーは、俳優、女優と違って「セリフ」を
言うのが苦手です。
 文学作品を朗読する時、この「セリフ」が必ずネックになります。
 文中の「セリフ」をうまく言えるかどうかで、朗読が生きたもの
にも死んだものにもなります。

 私は、この「セリフ」について北村和夫さんに質問した
ことがあります。
「このセリフは、どういうふうに作れば良いんですか?
 どうも、どんなふうに言っても、しっくりこないんです。」

 北村さんは、即座にこう言ったものです。
「そんな質問は愚問だよ。そんなへ理屈を言ってる前に、
その「セリフ」を状況を想像して1000回声に出して言ってごらん。
 そうすれば、だいたい落ち着くところに落ち着くよ。」

 1000回! 1000回声に出してですよ!!

 乱暴な教え方でしたが、北村さんはひらめきよりも、
愚直なトレーニングの大切さを教えようとしたものだと
思います。


★朗読がかなりできるようになった人へのアドバイス

 朗読に取り組んだばかりの、まだまだ気持が新鮮な方への
朗読入門は、私の「朗読教室」に述べていますから
読んでください。

朗読教室について←クリック。

 ここでは、朗読がかなりやれるようになった人。
 もうステージに上って、(ステージでなくても)聞く人を
前に朗読を披露するようになった方へのアドバイスを述べて
みましょう。


◎その読み(語り)は速すぎます。

 朗読者の音声を耳から取り入れた聞き手は、それをすぐ
頭の中で映像として描こうとします。
 しかし、それを鮮明な映像として頭の中で描けるまでには、
多少の時間が必要です。

 人によって、この時間は差があるでしょう。
 細部にまで鮮明な映像を描ける人もあれば、またボンヤリ
した単純な映像しか浮かばない人もあるでしょう。
 しかし、いずれにしても聞き手は、この作業に数秒とは言え、
いささか時間がかかるものです。

 しかも、この作業は聞き手にとって、実はかなりな
頭脳労働なのです。疲れるという人もあるくらいです。

 そこに来て、朗読者の読み(語り)のスピードが、速すぎると、
聞き手は今の映像を描ききれないうちに、もう次の情報が耳から
とび込んで来て、次の映像をイメージする作業に移らなければ
なりません。

 聞き手は、次から次におし寄せる音声を、映像として
イメージしきれないまま、次に移行することがたび重なると、
しだいに映像を描く作業がしんどくなって、ついに朗読を
聞くこと自体を放棄してしまうのです。
 ストーリーを追うことをやめるのです。

 その結果「うーん、今日のは何だかよく分らない朗読
だったなあ・・・。」ということになってしまうのです。

 聞き手が耳から取り込んだ情報を、頭の中で鮮明に
映像として描くには、個人差はありますが、いずれも
多少のタイム・ラグがあるのです。
 この事を、しっかり計算に入れて朗読して下さい。
 むしろ、こんなにゆっくりの読み(語り)で
いいんだろうか・・・と思うぐらいでちょうどいいんです。
 いや、それでも速すぎるかもしれません。

 私は、速すぎる朗読はいつも朗読会でお目にかかっていますが、
ゆっくりすぎる読み(語り)というものを聞いたことがありません。

 あなたの想像以上にゆっくり朗読して、聞き手に頭の中で
鮮明な映像を描かせてあげてください。
 きっと「今日の朗読は、感動的だったね。」という
感想になって返ってくることでしょう。


◎充分な間(ま)を取ろう

 朗読のスピードをゆるやかにすることも難しいのですが、
朗読に間(ま)を取るこの作業は、もっと難しいのです。

 朗読の命は、この間(ま)が取れるかどうかにかかっています。
 徳川夢声(むせい)という方が、朗読の名人と言われるゆえんは、
この間(ま)にあります。

 徳川夢声の「宮本武蔵」は、伝説的な名人芸と言われます。
 間(ま)を学ぶために、是非参考までにお聞きになって下さい。
 きっと現代の朗読者にとって、その間(ま)の長さにビックリ
なさるでしょう。
 タップリとタメを利かせている間(ま)で、聞き手はその状況を
頭の中に鮮明な情景を思い描き、登場人物の心理すら推測する
のです。

 徳川夢声が朗読した以上の情報を聞き手が自分で作り出して
くれているのです。
 ここが夢声の名人芸と言うべきところです。

 現代人は、日常生活のテンポ自体が相当速くなっています。
 人の会話も、それに平行して速くなっています。
 NHKのニュースですら、限られた時間内に情報を目一杯届け
ようとして速すぎる結果となっているし、間(ま)もないのです。

 しかし、人が情報をイメージする頭脳労働の速さは、
昔とほとんど変わっていません。

 さて、朗読にかなりな経験を積んだ人でも、この間(ま)を
取ることはとても怖いことです。
 朗読をやっている途中で「無音」でいるということは、
朗読者にとって苦痛なのです。
 むしろ、何か音を発している方が朗読者は安心するものです。
 この心理は、朗読を少しでもやった人なら、よく分るでしょう。

 だからこそ、間(ま)を取ることを怖がらずに朗読をやっている人が
いたら、それだけで聞かせる朗読。かなりレベルの高い朗読と
言えるのです。

 無音の間(ま)は、言葉以上に雄弁に聞く人に状況を伝えるもので
あることを知って下さい。

 また、自分に与えられた時間内に、この作品をどうしても
朗読したい・・・とばかり、もともと入り切らない永さの作品を
選んで朗読している人がいます。
 このため、無理やり文章を刈り込んで縮めたり、朗読自体を
急ぐ結果となっているケースがあります。
 これも朗読者としてはまことに未熟で愚かしい、聞き手無視の
初歩的な判断ミスです。
 朗読者に、このミスを犯している人が、思いのほかに
多いのです。

 それならば、与えられた時間よりずっと短くてすむ作品を選び直し、
余裕をもってゆったりと、充分な間合いを取りながら朗読するほうが、
よほど聞き手主体のおとなの朗読者と言えるでしょう。

 今、朗読に充分な間(ま)を取る人がほとんどいないだけに、
私はあえて、この間(ま)を取る必要性を強調したいのです。

 私もアナウンサー時代に、ディレクターから
「小林さん、このナレーション30秒で入るかな・・・。」
と言われ、およそ30秒では入り切れない分量の原稿を
手渡されたものです。

 相手の要望に応えるのがアナウンサーの職人芸とばかり、
私も何とか30秒で収めて、
「いやー、30秒で入ったね。ありがとう・・・。」と言われ
悦に入っていたものです。

 こんなものはナレーションでも朗読でも何でもありません。
 聞く人の立場に立ったナレーションではなく、メディア(媒体)側の
勝手な事情だけを優先した仕事だったのです。

 マス・コミから解放された今、どうやったら聞いてくれる人に
いちばん分りやすい朗読になるか。
 いちばん快い朗読になるか・・・。
 こちら側の都合ではなく、聞く人主体に考えた、ゆっくりと
間(ま)を充分に取る、本来の朗読がやっとやれるようになったのです。

 もう一度言います。間(ま)こそ、朗読の要諦なのです。


◎何を朗読するか、作品の選び方はかなり難しい。

 私は他人(ひと)の朗読会を見て歩いて、そこで朗読されている
作品のうち、およそ半数の作品について
「ああ、この人は朗読には向かない作品を選んでいる・・・」
と残念に思います。

 ステージで朗読を披露するという、いわば朗読者にとって
「晴れの日」に、よりによってなぜ、この作品を朗読するんだろう・・・
と首をひねってしまう朗読者が、あまりに多すぎるのです。

 この人の朗読がうまい、へた以前に、朗読に向かない作品を選んでおいて
それを自信満々、得々と朗読をやっている人を見ると、この人の朗読者
としてのセンスを疑います。
 
 多少巧みに朗読したとしても、もともと朗読に向かない作品を
選んでしまうセンスでは、どれほど朗読に努力しようとも、
この人の将来の伸びはたかが知れています。
 厳しいけれど私はあえてそう申し上げます。
 
 私が「舞台とは難しいものですよ・・・」と申し上げた理由は、
一つにはここにもあります。
 
 そこで朗読に向く作品を選ぶポイントです。
 それは、ひとえに聞く人の立場に立って作品を選べるかどうか、
ということに尽きます。
 朗読は自分の自己満足、自己陶酔のためにやるものではない、
と何度も申し上げました。
 あくまで主体は聞く人です。
 聞く人が、これをどう感じるか、聞く人が状況を容易に正確に
イメージできるか・・・あなたの好みではなく、あくまでそれを
優先して作品を選んでほしいのです。
 
 朗読者が聞く人の立場に先回りして想像する作業が的確にできない
ようでは優秀な朗読者とは言えません。

 ですから、朗読に向く作品を選び出せるセンスは優秀な朗読者に
欠かせない重要な要素です。

 私は他人(ひと)の朗読会を見に行く前は、その日朗読者が
何を朗読するのか、チラシなどで事前に下調べをし、図書館で
借りた本で全ての作品に必ず目を通してから出かけます。

 会場に着く前に、
「この朗読者は、この作品をどうこなすか」というテーマを持って
開演を待つのです。

 そうすると、ステージでの朗読を聞く前から
「この作品を選んだ朗読者は、期待できるぞ」
「この作品を朗読しようというセンスでは、たぶんダメだろう・・・。
それとも思いがけない朗読をするのかな・・・」
とおよその色分けができ、期待がふくらみます。注目する焦点が
定まります。

 こうして朗読を聞いた結果、私の事前の予測がはずれることは、
ほとんどありません。

 私は机に向かって、日がな一日朗読の勉強をしています。
 この朗読の勉強時間の中で、最も時間をかけるのは、声を出しての
朗読トレーニングだと思いますか。
 違います。
「何の作品を朗読するか・・・」の作品選びです。
 声を出す朗読の稽古より、作品を選び出す時間に、はるかに多くの
時間をさきますし、細心の注意を傾けるのです。
 こうして、時間をかけて作品を読んだ結果、朗読のために採用できる
作品は、10作品のうち1本あるか無いかです。
 ひどい場合など、20作品読んで1本もなし、ということもあります。

 このところ、作品の冒頭から4分の1ぐらい読み進んだところで、
合格・不合格を決められるようになりました。
 それほどテキパキとこなして行かないことには朗読に向く作品に
めぐり会うことは時間ばかりかかる困難な作業なのです。

 その主な理由は、作者は音声で朗読して聞かせるためにこの作品を
書いてはいないということ。
 それから聞く人が頭の中で鮮明にイメージできる作業は、思いのほか
単純な作品に限られる、ということです。
 ちなみに、私の手元には、自信を持って今すぐ人前で朗読できる作品が、
長短とりまぜて約25編から30編はあります。
 これらは、ステージか人前で何度も朗読してみて、充分によい反応が
あった作品ばかりです。テスト済みの作品です。
 
 テストまで到達したけれど、好反応が得られないために脱落した作品も
いくつかあります。
 このような厳しい最終テストを経て、私の「秘蔵っ子」「とっておき」の
朗読作品として残ったものばかり。これらの作品は私の朗読の虎の子と
言えます。

 しかしまだまだ、これらを増やして行く必要があります。何しろ私は、
毎月一回新宿髙島屋と横浜そごう店で私の朗読会をやっているのです。
 これにはできれば毎月新作の朗読作品を用意したいと準備に追われる
のです。

 私は単発で朗読の出演を要請されると、そのイベントについて慎重な
取材を開始します。
 お客様の種類、人数。イベントの目的。年齢層。
何を期待して集まられるか。会場はどういうところか。
 これらを依頼者から聞き出し作品の候補を選び出します。
 この取材に全神経を集中します。こうしてやっと当日の作品が
決まるのです。

 では、どういう作品が朗読に向くのでしょうか。

 私は朗読に向く作品の話をしながら、作品名や具体的な作品の傾向に
ついてはほとんどお話しませんでした。

 出し惜しみをした訳ではありません。
 これについては、私に会うか電話で直接聞いて下さい。
 私は余すところなく、隠すことなく、作品名を申し上げます。
 選び方のコツまでお教えいたします。

「この作品は私の朗読に向きますか?」
という質問でも結構です。

 あなたの生の声を聞き、朗読の個性やクセを知り、その上でその作品を
私が未だ読んでいなかった作品だったら、大至急精読して、誠実に本音で
ご返事します。
 私を信頼して相談してくれるならば作品選びには誠心誠意お手伝い
いたします。

 そのかわり、あなたが愛着していた作品を
「あなたの朗読には向かない・・・」と否定することがあることも
覚悟して下さい。
 その場合、私はその理由を丁寧にご説明するつもりです。

 朗読の要諦が間(ま)の取り方ならば、良い朗読者の資格は、
作品の選び方のセンスだと、私は思っているのです。



★どのような朗読者をめざすべきか

 もう1つ重要なのは、朗読者の人柄です。
 観客を目の前にしてやる朗読は、メディアの中でやる朗読以上に、
朗読者の人柄がお客様にモロに見えてしまいます。
 隠しようがありません。
 ですから、ステージで朗読をやる人は、朗読の技術を磨くことも
さることながら、もっと基本的なこと、あなたの人格を磨くことを
志さなければなりません。

 難しいことですが、老婆心でこの事を申し上げておきます。

 例えば小学校の先生は、教える知識が豊富なことはもちろん
必要でしょうが、それよりも先生の人柄。
 先生の熱意や情熱。
 先生が生徒を愛する度合い。
 先生がいつも全力で生徒に立ち向かい、はつらつとしているか
どうか・・・。
 先生の生き方や取り組む姿勢に関する部分が、もっと
大切なのではないでしょうか。
 これが、生徒をひっぱって行く重要な要素に
なっているような気がします。
 先生は、全人格をかけて生徒に立ち向かう・・・。
 これが大切なのです。 

 あなたの人柄、人格に、お客様が疑念を持ったら、
もうそれだけで、どんなに上手い朗読を披露しようとも、
お客様を引っぱっていくことはできませんよ。

 ここが、生の朗読の怖いところです。
 生の朗読は、あなたの全人格をぶつけてやる作業です。

 さて、ステージに立っていながら、周囲、周辺への配慮に
欠けた朗読者がいるものです。
 朗読している私がお山の大将。
 私が主役。という自己中心的な人です。
 それが観客席から見えてしまう人です。

 このタイプは、おしなべて自己満足形か自己陶酔形の朗読者に
なっているのですぐ分かります。謙虚さが無いのです。
 私が最もダメだと思う、嫌いなタイプの朗読者です。

 ステージに立っていながら、こういった人間的に未熟としか
言いようのない人を見かけると、私は腹立たしいのはもちろんですが
悲しくなります。

 こんな人が、朗読がうまいはずがありません。
 この人は、ここまで来る修行の過程で何を学んだというのでしょう。

 目の前にいる観客を、シンから思いやって感動させる朗読など
できるはずがありません。
 作品を深く洞察する能力などあるはずがありません。

 朗読をする・・・とは、実は自分の満足のためではないのです。

 スタートは自分で朗読が好きでやり始めたなどの
目的意識があったでしょうが、我を忘れて修練を積むうちに、
いつの間にか自分は消えていて、相手のために朗読する・・・
という枯れた心境に必ず行き着くものです。

 私は「★朗読のステージに何が求められるのか」の中で
こう申し上げました。
「母親が我が子が寝入るひととき、枕元で静かに語りかけている
肉声による物語り。
 これこそ、朗読(語り芸)の出発点であることを思い出して
ほしいのです。」と記しています。
 この母親の心を推測するならば、それは我が子(聞く人)への
思いやり、慈(いつく)しみの心しかありません。

 そこには、もう自分がありません。
 自分が前に出た朗読は、まだまだ本物とは言えません。

 いえ、これは単に朗読ばかりではありません。
 ステージに立って芸を披露するあらゆる芸能に見る
共通の「極意」「境地」なのです。

 いえ、芸能人ばかりではありません。
 自分のためではなく、相手のために
 何々する・・・そうすることが喜び・・・

 という心境は、「人生の極意」とも言うべき心境かもしれません。

 あなたは、こういう心理状態になって、朗読の場に臨んでいますか?
 もう一度、胸に手をあてて考えてみてください。


 こう申し上げる意味は、あなたにスケールの大きな朗読者に
なってほしいからなのです。

 朗読をするとは、その根底のところに
美しい日本語の維持・継承をする
という堂々たる理想の旗を掲げてほしいのです。
 その担い手であるという誇りを持ってほしいのです。

美しい日本語の維持、継承←クリック。

 あなたが自分を捨て切れないちっぽけな朗読者になるか、
それとも、聞く人のことを中心に思う心優しい朗読者にになるかは、
この理想の旗を掲げて前進しているかどうかにかかっています。

 朗読を通じて、広く物を見る目を養い、スケールの大きな人、
心優しい朗読者になって欲しいのです。


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小林大輔の朗読CD

★朗読CD第1弾「山月記」と、
第2弾の「恩讐の彼方に」、
第3弾の「雪女」「耳なし芳一」
「高瀬舟」から、
一部をご紹介します。
それぞれのCDの解説は
下記にあるCDタイトルから
ご覧ください。







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CD「恩讐の彼方に」解説←クリック
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