朗読を真剣に追求して行くと、朗読する作品は単に既存の文章や文学作品を忠実に朗読するだけでは、朗読者としては限界を感じることがあります。
朗読する人で、このことをまともに主張し、論じている人は、私をおいてまだ誰もいません。
朗読がブームとも言われながら、まだ朗読はそこまで成熟していないのでしょう。
しかしこれは書かれた文章や作品が活字として読まれることを目的に制作された時代から、その次の段階、音声に替えて伝えられることもあるという、新しいコミュニケーションの時代に入ったことを物語っています。
朗読者は、自分が朗読する作品は、その原稿や文章を自分の思う言葉で伝えたいと、しだいに望むようになります。
その目的は、この作品の文章を、朗読者が自分の音声を手段にして聞く人に伝える場合、朗読者は原作には無かった朗読にあう文章や言葉、聞いてよく分かり、より感動に結びつくものに置き替えて朗読したいと思うようになるはずです。
書き言葉では、これで充分なのかもしれないけれど、音声に替えた場合もっと適切な表現があるのではないか・・・と、朗読者は模索するのです。
こうして朗読者は、文章に手を加えることになります。
これを朗読に合う文章の加工と言うならば、この加工は、朗読者の権限として許されるのではないでしょうか。
いや、そうすることは、むしろ朗読者の義務ではないか。
これは朗読のための重要な技術の一部ではないか、とさえ私は思うようになりました。
これには、賛否両論あるでしょう。
いくら著作者の権限が終了している作品でも、原作者以外の人間が勝手に文章に手を加えることは許されない、とする考え方が一般的です。
しかし、本当にそうでしょうか。
原作者の意図を充分に汲み取った朗読者が、その意図を音声に替えて聞く人に伝える場合、それでも加工することは許されないのでしょうか。
例えば、文学作品は、あくまで活字になることを目的として作家はこの作品を執筆したはずです。
そうです、執筆という言葉があるくらいです。
つまり活字になった段階で、この作家の作品は個人に「黙読」される作品として完成し、その作業は終了したのです。
作家は決して、この作品が音声に替えて大勢の人に「朗読」されるとは予想もしなかったでしょう。
朗読して聞かせる。
これは、この作品を執筆した作者の手を離れ、予想しなかった新しい領域に入って作品がひとり歩きを始めたことになりませんか。
文章の「二次使用」という言葉がありますが、朗読もそういったケースかも知れません。
「活字を読む」というコミュニケーションから、この作品が「音声に替えて聞かせる」という新しいコミュニケーションに移ったのです。
この新しいコミュニケーションの担い手である朗読者は、新しいコミュニケーションには新しいそれにふさわしい手法、「朗読に欠かすことのできない、聞く人に理解されやすい、また情緒的にもピッタリ合うと思われる言葉や表現方法」を作家の書いた文章表現とは別に、独自に工夫し駆使することは当然な事と私は思うのです。
そのためには、朗読者は原作者以上に音声で表現するには、どういった言葉や表現が最も効果的なのかの勉強や努力が必要です。
例を挙げましょう。
私はおよそ4年前、日本の文学史上有名な中島敦の『山月記』を現代語訳して、朗読のCDとして出しました。
高校の教科書にまで採用されているこの作品は、私はあのカフカの『変身』以上の作品と思っています。
しかし原文のままでは惜しい・・・と思ったのです。
原文の漢文調のままでは、この名作が今の人にはなかなか理解されず受け入れられないのです。
今の人に分かってもらうには、とくに音声で伝えるという新しい伝達方法を使うなら、この機会に今の言葉に置き換えるしかありません。
『源氏物語』は、とっくにそうしているではありませんか。
『源氏物語』が歴代の様々な作家によって現代語訳されることによって、結果的には今の人々にさらに読まれるようになったし、朗読に向く作品としても用いられるようになったのです。
朗読のために現代語訳するにあたって、私が最も気をつけたのは、中島敦が目ざした作品の意図を損なわないこと。
中島文学が持っている格調の高さを失わないこと。
この二点です。
朗読者の努力とはここです。
私の主張では
「言葉は、解ってはじめて言葉」
と思っています。
著作権が切れている作品は、私は今後朗読用に大胆に加工して行くつもりです。
しかし、著作権が有る作品は、私は著作権者にお目にかかり、朗読用に加工した作品をお見せし、場合によっては私の朗読を聞いていただき、著作権者の知恵をお借りし許可を得たうえで、新しい朗読用の作品を完成することが理想と思っているのです。
- 関連記事
-
小林大輔様
お初にコメントさせていただきます。
曽我部勇介と申します。25歳/男
本内容拝見しまして、得心を得ることが数多くありました。ありがとうございます。
私は今京都でお世話になっている劇団で、一人芝居に近い朗読をしております。その中では感情や読みにたいして[正確であれ][自然であれ]をモットーにしております。
ただし最近は朗読によって人に感動する何かを伝えたいと思っておりますが、ミュージカルや舞台、映画と比べて、動きがなく人を惹き付けることは難しいと感じています。
そこで朗読と共に、音楽や照明、映像を用いてはどうかと思案しています。もちろん作者の意図から外れない陽思案していますが、この考えについてはどうおもやれますか