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花盛り朗読






天声人語が語る『読書』の2例

Posted by 小林大輔 on 10.2017 日記 0 コメントを投稿
読書の原点とは、我が子が寝しなに母親が語ったり、読んだりする童話や民話、昔話し…だ。
私はいつも教室で、そう生徒に語って聞かせます。

この時、母親の肉声を聞きながら、幼い子供は、どれほど自分の想像の翼を広げ、情操を育んだか。

今から約1ヵ月前、朝日新聞の「天声人語」の書き出しにこんな文章が載っていました。


手塚治虫は幼い頃、母親から漫画の本を読んでもらっていた。(中略)しかも、その読みっぷりが傑作で、登場人物の声色を使い分け、面白おかしく演じてくれた。
聞きながらワクワクしたり、ハラハラしたり、感極まって泣き出してしまったと、自著に書いてある。



母親の語る声が朗読の原点なら、あなたがこれから立派な朗読会のステージに出て行く寸前だとしても、決して特別な場に出て行く緊張など感じなくて済むでしょう。

我が子に語ってあげるいつもの場なら、特に気どることもアガることもないし、ましてやマイクを使用することも、念入りな化粧や、凝った衣装に着替える必要はありません。
要は、普段通り朗読してくればいいんです。

私は、そう言って生徒たちの心をリラックスさせます。

もう一つ、今朝(7月10日〔月〕)の天声人語は、こういう書き出しで始まっています。



断言して良いが、本は読む場所によって表情を変える。机の上では厳しくとっつきにくかった1冊が、静かな喫茶店に持ち込むと優しく語りかけてくる。
読みかけの本でも見知らぬ土地で聞くと、新鮮な感じがしてくる。



以下、これは皆、自分が「本」と、どう向き合って読むか、と言うパーソナルなケースを天声人語は書いています。

ところが読書には朗読すると言う新しい分野が加わりました。

私は朗読教室を各所で開設して指導しているだけに、この熟年の方々を中心に「朗読」すると言う隠れた行為は、「読者」がパーソナルな行為では終わらない「集団」の行為となるのです。

そこでは、いつも生徒から相談を受けるのは、こういうことです。
「朗読会で披露する作品には、向き不向きがあるのでしょうか?」
と言う質問です。

「あります!!」と私は、断言します。

考えてみてください。
都心まで電車賃を使って足を運ぶ。
会場に入るときには、しかるべき入場料を支払う。
大勢の人と肩を並べて朗読を聴く。

この条件や、環境を考えてみてください。
天声人語は「本」と「個人」を対峙させていますが、「朗読」は本を人の声で伝え、自分は「大衆」の中の大勢の観客のひとりとして、楽しみを共有するのです。

ここが「朗読」が「読書」と異なるところです。

この朗読の環境は、コンサートやお芝居を見に都心に出向く、落語やイベントに参加するケースに似ています。
つまりこれは、エンタテイメント(娯楽)を体験する場なのです。

「朗読」は、決して「読書」と同じ「個人」の出来事では無いのです。

ですからここでは、深刻な重い文学作品や、多分に内省的な純文学を朗読してもらおうとは誰も望んでいないのです。それはあなた個人で、あなたの書斎で静かに鑑賞してください。

もっぱら軽く笑える「大衆文学」か、人情の機微、自分たちの生活の中の身近な話題を題材にしたものが聞きたいのです。
それならもう「朗読会」で、どういった作品がふさわしいかお分かりですね。

いまだに「朗読」には、難解で、立派げな大作を読まなければならないと力んだ朗読者がいるのには、私は笑ってしまいます。
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