花盛り朗読




落語と朗読

Posted by 小林大輔 on 10.2017 日記 0 コメントを投稿
私に朗読を教えてくれた大学の先輩、文学座の俳優・故人の北村和夫さんが、口癖のように言っていました。
「小林くん、落語を馬鹿にしてはいけないよ。あの芸はかなり深いぞ。さすがに伝統芸能と言われるだけある。」そう言っていたのを思い出します。

私は古典落語の人情話「芝浜」をペアの朗読劇としてやってみようと決意した機会に、落語の舞台とはどういうものか改めて研究してみる気になりました。

これまでは落語と言えば、ただ面白おかしいとの理由からだけで見ていたのですが、今回は別の問題意識を持って、例えば、落語を芸として観察してみる姿勢に変わったのです。

今週は2つの落語の高座を生で見ました。
1つは、私は親しいまだ出世途上の若い落語家・古今亭志ん吉さん。こちらは9月6日木曜日。会場は赤坂会館の6階でした。

古今亭志ん吉


そして、もう一つは9月9日土曜日の夜。国立演劇場で、練馬に住んでいる兼ねてお馴染みの真打ち、桂文治さん。こちらは今注目の実力派。

桂文治


この2つの高座を見て、私は正直なところかなり衝撃を受けました。

私がやっている「朗読」がなんと底の浅い芸か…。このことを思い知ったのです。
「朗読」を芸と言うなら、それは残念ながら素人芸に過ぎません。なんとも脆弱で表面的な芸で、どこにもプロ根性など感じません。

一例を挙げましょう。
朗読は、文章を読むことが宿命的に義務付けられているため、舞台上でも台本持つことが許されます。
しかし、果たしてステージで台本を持ってやる芸が、芸として認められるものでしょうか? (何かの練習をステージでやっているのじゃあるまいし!)

芸と言われるもので、ステージ上で台本を持っているものなど他にありません。
ここが、朗読の「本格的な芸」と世間から認められない大きな要因だと思います。

「朗読」は素人でも参入しやすい。それは台本を手放さないから…。そういった売り言葉を武器に素人を誘っている団体もあるくらいです。
「あなたも簡単に、プロ並みのステージが実現します。」と言う訳です。
この辺が「朗読」が素人芸とそしられる所以です。

朗読が素人芸から決別している基準は、1つはその人の肉声による「音量」。もう一つは「間」だと私は信じています。
これだけでも、その朗読者がいかほどの朗読者かある程度推測できます。その上あの台本です。

もし、台本を持たずに舞台に出ていく朗読者がいるならば、その人はかなり深くこの作品を研究し、練習を積んでいる自信のある朗読者と言えるでしょう。

私はそんな朗読者を一部の例外を除いてほとんど見たことがありません。

朗読が素人芸を脱却しようとするならば、朗読にありがちな、気取った、取り澄ました姿勢を即座に止めるべきです。
台本にすがりまくった本気度の見えない出演者の芸など、観客に共感を呼ぶはずがありません。
これこそ「素人芸」の典型、朗読者共通の欠点だと思います。

自分が朗読をやる人間の1人として、反省も含めて思うところを述べてみました。
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